大判例

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東京地方裁判所 平成2年(ワ)6995号 判決 1992年1月30日

原告

柊揮七

柊清子

右両名訴訟代理人弁護士

早崎卓三

被告

杏林製薬株式会社

右代表者代表取締役

荻原秀

右訴訟代理人弁護士

井出正光

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告両名に対し、それぞれ金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和六二年六月一九日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、急性虫垂炎の手術中に死亡した患者の父母が、右患者の脊椎麻酔に用いられた麻酔薬テトカインの製造販売元である被告に対し、主位的には、患者の死亡原因がテトカイン投与によるアナフィラキシーショックであるとして、テトカインの販売に際し、麻酔事故を防止するため、アナフィラキシーショック発生の具体例があること等を医師に対し警告すべき義務等があるのにこれを怠った過失があるとし、仮に死亡原因がアナフィラキシーショックではなく、麻酔高が上昇し過ぎたためであるとすれば、予備的に、テトカインの使用上の注意として、麻酔領域固定まで少なくとも五分ごとにこれを確認すべきこと等を添付文書に記載して、医師に警告すべき義務があるのに、これを怠ったために医師がテトカインの使用を誤り、患者が死亡したことを理由に、不法行為に基づく損害賠償を求めている事案である。

一争いのない事実等

1  当事者

原告両名は、昭和六二年六月一八日、医療法人志仁会薬丸病院(以下「薬丸病院」という。)において、急性虫垂炎の手術中に死亡した亡柊誠司(当時一五歳。以下「誠司」という。)の父母である。

被告は脊椎麻酔薬テトカイン(薬剤名はテトラカイン)の製造販売元である。

2  誠司の急性虫垂炎手術(以下「本件手術」という。)の経過

誠司は、昭和六二年六月一八日、薬丸病院において、林忠男医師の執刀により、本件手術を受けた。その経過は次のとおりである。

誠司は、午後四時四五分、手術室に入室し、午後四時五〇分、術前の昇圧剤としてメキサン一〇ミリグラムの投与を受け、午後四時五三分、脊椎麻酔を開始し、被告の製品であるテトカイン(原告らは二〇ミリグラムが投与されたと主張し、被告は一五ミリグラムであると主張する。)の注入を受けた。午後四時五八分の麻酔範囲高(麻酔領域(レベル)の上限)のチェックではT8(第八胸髄)であった。午後五時〇〇分、手術による患者の不安抑制のため、ロヒプノール(精神安定剤)が投与された後、午後五時〇三分、手術が開始された。

午後五時一五分、手術終了と同時に、誠司は呼吸困難を訴えたので、直ちに酸素マスクによる酸素吸入が開始され、ソルコーテフ、硫酸アトロピン、強力ネオミノファーゲンが投与された。午後五時二〇分、呼吸困難が強度になると同時に、低血圧、徐脈、チアノーゼが出現したため、気管内挿管による加圧呼吸を試みたが、気管支痙攣様発作のため加圧ができなかったので、救急蘇生術を開始した。午後五時二七分、気管支痙攣は部分的に改善されたが、依然として低血圧、徐脈が続いたので救急蘇生術を続けた。午後六時一五分、心室細動のためカウンターショックを実施するが回復せず、午後六時三八分、午後七時五八分と再度カウンターショックを試みたが回復せず、午後九時三八分死亡した。

二争点(1、2は主位的請求原因、3は予備的請求原因に関する。)

1  誠司が死亡した原因は、テトカインによるアナフィラキーショックであるかどうか。

2  1が肯定される場合に、被告にはテトカイン販売に際して、ショック発生の具体的事例があり、その防止のためには必要最小限量以上の投与をしてはならないこと及び子供に対しては成人量を超えてはならないことを明確に警告すべき義務があったか。

3  誠司の死亡原因がアナフィラキシーショックによるものではなく、麻酔領域(レベル)が上昇し過ぎ高位に及んだことによる呼吸、循環の抑制である場合には、被告はテトカイン販売に際して、使用上の注意として、「脊椎麻酔後麻酔領域(レベル)が固定するまで、少なくとも五分ごとに麻酔領域(レベル)を確認し、患者の血圧、呼吸、脈拍、意識などを観察し、その異常が認められたときは直ちに治療すること。」を添付文書に記載すべき義務があったか。

4  原告の主張によれば、誠司の損害額は、逸失利益の現在額金五一二六万七〇一五円と慰謝料金三〇〇〇万円の合計金八一二六万七〇一五円であって、その各半額の請求権を各原告が相続したが、薬丸病院から各金三〇〇〇万円合計金六〇〇〇万円の賠償を受けたので、原告らはこれを差し引いた各金一〇六三万三五〇七円の損害賠償請求権があると主張し、その内各金一〇〇〇万円を本訴において請求している。被告に責任があるとなれば、この損害額の当否も判断の対象となる。

第三争点に対する判断

一争点1、2について

1  一般に、アナフィラキシーショックとは、抗原抗体反応に基づく生体反応をいう。具体的には、薬物、ワクチン、抗血清、抗体等が、人体内において抗原となり、免疫担当細胞であるB―リンパ球を刺激して、抗体である免疫グロブリンを産出し、再び抗原となった薬物等が投与されると、直ちに結合(抗原抗体反応)し、肥満細胞や好塩基球を刺激してヒスタミン等の化学伝達物質を放出し、それにより平滑筋の収縮、小血管の透過性の亢進、好酸球の浸潤等を起こし、その結果さまざまな臨床症状を引き起こす。また、アナフィラキシー様ショックとは、明確な抗原抗体反応が起こらなくても、補体の活性化等により、アナフィラキシーショック類似の臨床症状を起こす病態である。

そして、その臨床症状は、前駆症状としては、掻痒、発赤、発疹、浮腫、くしゃみ、咳、冷汗、四肢の温感、腹痛、嘔吐、便意、頭痛、不安感があり、主症状としては、蒼白、気管支痙攣、咽頭浮腫、呼吸困難、チアノーゼ、血圧低下、頻脈、不整脈、循環虚脱、失禁、腸蠕動の亢進、血液凝固障害、白血球減少、血漿漏出、意識障害、反射の低下、痙攣が挙げられる。これらアナフィラキシーショックの臨床経過は、発症が速いことが特徴であり、薬物投与後数一〇秒から三〇分以内に現れる。

わが国において、脊椎麻酔に合併して発生したアナフィラキシー(様)ショックの患者の症状と経過として、臨床報告されている四報告六症例<書証番号略>についてみると、六症例中四例にアレルギーや喘息の既往があり、また、六例全てにおいて、初発症状として、皮膚の発赤、皮膚掻痒感、咳、喘鳴、喘息発作、呼吸困難という、アナフィラキシー(様)ショック特有の症状が現れている(以上、鑑定人小川龍の鑑定結果、以下「小川鑑定」という)。

2  そこで本件における誠司の臨床症状を検討する。

まず本件手術のための入院に際して作成された診療録<書証番号略>中には、誠司にアレルギーや喘息の既往歴があったかどうかについての記載がない。しかし医師は手術に先立ち、アレルギーや喘息の既往歴の有無について問診するのが通例であるし、誠司は当時一五歳で、医師の説明を聞いて自ら手術の承諾をする能力を有していたのであった<書証番号略>。そのような通常の患者に対して、右の問診をしなかったとは到底考えられない。そうしてみると、そのような既往歴の存在を疑わせる記載がなく、かつ他にその存在を窺わせる証拠のない本件においては、誠司にはそのような既往歴がなかったと推認するのが相当である。

次に診療録<書証番号略>によれば、誠司に対して脊椎麻酔を施行し、虫垂手術が終了するまでは著変がなく、最初に誠司に現れた異常な症状は、手術終了とほぼ同時に訴えた呼吸困難(午後五時一五分)が最初であった。それ以前に、アナフィラキシー(様)ショック特有の前駆症状とされる、皮膚掻痒、皮膚発赤、悪心、嘔吐、咳、不安感等、あるいはアナフィラキシー(様)ショック特有の皮膚症状とされる皮膚膨疹、血管拡張性浮腫等の症状が認められた形跡はない。

この点について原告らは、薬丸病院が小規模病院であって物的人的設備が十分ではなく、救急蘇生術のために手一杯で診療録を詳細に記述する余裕はなかったとの推測を根拠に、診療録に記載のない症状が、現実に発生していなかったと断定はできないと反論するが、前記のとおり診療録には、呼吸困難を訴えるまでは著変のないことが明瞭に記載されていることからすると、誠司に現れた他の異常所見の記載がすべて省略されていたとは考えにくいし、他に前記のようなアナフィラキシー(様)ショック特有の症状が現出したことを窺わせる証拠はない。

なお右診療録には、午後五時二〇分すぎに気管内挿管を行ったが、換気が十分にできなかった旨の記載があり、これは気管支痙攣や肺水腫が合併していたため肺の伸展性が著しく低下した事を意味するが、気管内挿管に際して、喉頭浮腫の症状が現れた様子はない(小川鑑定)。

3  このようにアナフィラキシーショック特有の症状とされている症状のうち、本件証拠上明らかに誠司に認められた症状は、前述の呼吸困難と、低血圧、徐脈、チアノーゼ及び気管支痙攣のみであって、アナフィラキシー(様)ショック特有の症状として一般に挙げられているもののうち、わずかの症状しか認められない上、前述のわが国におけるアナフィラキシー(様)ショック患者の症状として臨床報告されている六例全部にいずれもみられる皮膚症状が認められた証拠はない。

しかも、前述の症例報告<書証番号略>によれば、局所麻酔薬の副作用としてのアレルギー反応の頻度は一パーセント以下であり、アナフィラキシーショックの発生頻度はさらに低く、二万回の局所麻酔に対し一回の発生があるだけであるとされる。しかも前述の六症例のうちテトカインによるものは、一例に過ぎない<書証番号略>。現にアナフィラキシーショックは起こるとしても極めて稀であることから、アナフィラキシーショックであるかどうかの診断は慎重であるべきであり、全身麻酔や局所麻酔中のいわゆる麻酔ショックの殆どは、アナフィラキシーショックではなく、麻酔薬による心循環系の抑制によるものであることを指摘する文献もあるほどである(<書証番号略>)。

かえって小川鑑定によれば、誠司の示した前記各症状は脊椎麻酔の麻酔範囲が高位に及んだため、血圧や呼吸が障害された結果、呼吸困難、低血圧、徐脈、チアノーゼが発症した可能性が高い。

以上のとおり、誠司にはアナフィラキシーショックの発症を疑わせる症状の一部は認められるものの、そうであれば通常発症するはずの他の顕著な症状が生じたと認めるべき証拠はなく、しかもテトカインを始めとする薬物によるアナフィラキシーショックの発症例が希有であることや、誠司の示した症状については他の有力な原因が考えられることとを併せ考えると、いまだ前記症状だけでは、誠司がテトカインによりアナフィラキシー(様)ショックを起こしたとは認めることはできない。

よって、争点2については判断するまでもない。

二争点3について

1  原告らは、脊椎麻酔後、麻酔領域(レベル)の固定まで少なくとも五分ごとに、右領域(レベル)を確認し、患者の血圧、呼吸、脈拍、意識等を観察して異常が認められたときは直ちに治療をすることという趣旨を、テトカインの添付文書に記載すべきであったのにこれを欠いていると主張する。

2 しかしテトカインの添付文書(<書証番号略>)の「取扱い上の注意」の項には「本剤は劇薬、指定医薬品である。」との記載があり、劇薬で指定医薬品であるテトカインを使用するのは、医学及び薬学上の専門知識を有する医師であると考えられるから、テトカインの添付文書にも、これらの者が理解しうる範囲で使用上の注意をしておけば足りると解される。

右文書中「薬効薬理」の項には「本剤による脊椎麻酔時に作用時間を測定した結果、効果発現時期は三〜五分、麻酔固定時間は一〇分前後、麻酔持続時間は約1.5時間(エピネフリンの添加により約五〇パーセント延長)であった。」との記載があり、この記載から麻酔領域(レベル)が固定するまでには術後約一〇分を要することを容易に理解することができる。

また、右文書中「使用上の注意」の「(1)一般的注意、2、エ」欄には、脊椎麻酔の方法による場合、「本剤の比重は一定に調整されているが、患者の脳脊髄液の比重にはかなりの変動があることに留意すること。」との記載があり、脊椎麻酔の場合、麻酔領域(レベル)に個人差が生じやすいことに注意を喚起している。麻酔高のチェックは、麻酔高が無闇に上昇することを防ぎ、手術に必要な麻酔高に止めるために必要であり、麻酔高を知ることによって、その上昇により必然的に起こる呼吸・循環抑制の程度を予測でき、又発現した変化の解釈もできるので、時を失することなく適切な治療を行い得るとされているから(<書証番号略>)、麻酔を施行する医師にとって、麻酔レベルのチェックは常識に属するといえる。

さらにテトカインの添付文書中「使用上の注意」の「(6)副作用」欄には、循環器について、「ショック様症状を起こすことがあるので、観察を十分に行い、血圧降下、顔面蒼白、脈拍の異常、呼吸抑制等の症状があらわれた場合には、直ちに人工呼吸、酸素吸入、輸液、昇圧剤の投与、適切な体位等の処置を行うこと。」との記載が、また過敏症について、「じん麻疹等の皮膚症状、浮腫等の過敏症状があらわれることがある。」との記載もある。これらの記載は、テトカインを使用する医師に対し、麻酔レベルのチェックに関連した副作用についての注意を喚起するものとして、必要なものを満たしていると考えられる。

このように、テトカインの添付文書には、患者の個人差に留意せよとの記載や、麻酔領域(レベル)固定まで約一〇分かかるとの記載があるので、テトカインを使用する医師が、その間、麻酔レベルをチェックするであろうことは当然予測ないし期待できるし、また、副作用とそれに対する医師の対応についての記載もあるので、万一副作用が起きた場合でも、医師がしかるべき対応をとるであろうことも十分に予測ないし期待できる。

3 以上によれば、テトカイン販売業者である被告が、これを使用する医師らに対する使用上の警告のために、その法的注意義務としてその添付文書に記載すべき事項としては、<書証番号略>の記載で足りると考えられ、これを超えて原告の主張するような事柄まで記載すべき注意義務があるとは言えない。

よってそれ以外の点について判断するまでもなく、原告らの請求は理由がない。

(裁判長裁判官髙木新二郎 裁判官佐藤陽一 裁判官釜井裕子)

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